小屋の旅 020 (小屋と「森の生活」)

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20.小屋と「森の生活」

 貸し農園”とも呼ばれる「市民農園」は、“野菜づくりや花づくりなどをしたくても、市街地ではそのようなスペースがないためにできないことから、農地を借りて楽しめるようにした制度です。この市民農園に、宿泊可能な小屋を備えた「クラインガルテン」と呼ばれるものがあり、都市と農村との交流という考え方も包含した貸し農園、つまり「転地保養+遊び+土いじり体験+ひとの交流」といった、ちょっと欲張りすぎる要素をもったシステムです。ただ、“ひとの交流”については、各地にあるクラインガルテンによってかなりの温度差があるようで、写真の松本市四賀地区の「緑ヶ丘クラインガルテン」は、どちらかというと人的な交流に力を入れているところです。使用契約は1年ごとに更新され、月に2、3万円ほどで利用できます。


 松本市の北、虚空蔵山の南斜面の森のなかにある緑ヶ丘クラインガルテンは、1区画の広さが約300平方メートル、そのなかに30平方メートルほどのラウベと呼ばれる小屋と、畑や庭にできるスペースがついています。写真左手、クルマの前にある区画を見るとおおよその敷地の広さ、ラウベの大きさ、菜園づくりの様子などがなんとなくつかめると思います。この利用者は畑づくりを中心にしているようですが、もちろん庭園づくりをメインにしているひともいます。ラウベは住宅ではなく、限りなく住居に近い小屋という位置づけで、ここではログハウス造りになっています。室内はワンルームの1階にキッチンとバス、トイレが付き、庭に面してデッキが置かれています。2階はバルコニー付きのロフトで、5、6人が寝泊まりでき、薪ストーブの設置も可能です。写真の緑ヶ丘クラインガルテンは、クラブハウスから俯瞰するように撮ったもので、各ラウベの背面が見えています。わが国で1990年代に始まったクラインガルテンは、いまや全国に100カ所以上も誕生して供給過剰だといわれ、いくら募集をかけても利用者が集まらないなか、この緑ヶ丘は人気が高く、すべての区画が埋まっているそうです。

 緑ヶ丘のなかを少し歩いてみたところ、とても静かで落ち着いた雰囲気です。整然と区画されたエリアは、一般の住宅団地にまけない大規模なもので、全部で78区画もあります。それでもいたって静かです。これは緑ヶ丘の一帯が深い森に囲まれていること、小屋の外壁が自然素材の木であること、各区画の敷地の大半が畑や庭になっていることなど、様々な要因が関係しているからだと思います。騒音などは周囲の草木が吸収してくれるのでしょうが、住宅団地の明るくざわざわした感じとはまるで別世界です。おそらく騒音計のようなもので測定して、たとえ同じ静かさであったとしても、緑ヶ丘のような静けさにはならないというか、静寂の質が一般の住宅地とは決定的にちがっているようで、これがひとにどのように作用するのかです。同じ孤独という状況にあったとしても、それがむしろこころの充足に振れやすい空気感といったらいいのか。ここを管理している会社で聞いた話によると、ある利用者が自分で耕した土に植物の種をまき、それがやがて芽を出してきたときの喜びがあまりにも大きかったことから、さっそく自分の息子に連絡したところ、「大事な会議中にそんなことぐらいで電話をしてくるな」と切られたそうです。この利用者の発見、感激、喜びのようなものは、やはりこの森のなかの空気でないとなかなか、からだのなかから湧いてこないようにも思います。無機質で乾いた音や色、素材に囲まれて暮らす生活の快適さもいいですが、それ一辺倒ではやはり心身ともにくたぶれてくるわけで、それでも疲弊しないとすれはロボットに進化した人間か、さもなければ、たんに狂ってきたことに気づかない耐性が身についただけの人間かもしれません。

 ある意味で緑ヶ丘クラインガルテンは別荘地のようだといえないこともありません。ただ、ラウベをとりまく畑や庭づくりをとおして、利用者のひととなりや流儀のようなものがなんとなく見え、人間くささが伝わってくるなど、その意味ではここは住宅地の延長線上にある存在だろうと思います。コミュニティを生成するためには建物というモノではなく、そこに住んでいるひとびとの営みがあるていど感知できるほうが意思の疎通に有効ですし、交流もしやすいはずで、世の中には緑ヶ丘のようなタイプの住宅団地がいろいろあってもいいように思います。ソローの「森の生活」といえば盛大にイメージがふくらみますが、緑ヶ丘はそれをさらに団地版に改良し、現代のライフスタイルに消化しているようなところがあります。働きすぎて精も根も尽き果ててからではあと祭りで、そうなるまえに2、3年、このようなクラインガルテンで生活してみるのも、長い人生、いや限られた短い人生には、もっとも役に立つかもしれません。

小屋の旅 019 (リゾートと小屋)

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19.リゾートと小屋

 山にはまだ雪が残る信州は白馬村の小屋です。いまや国際的な山岳リゾート地になってきた白馬村から望む北アルプスの雄大さ、美しさは、まさに圧倒されるというしかないような素晴らしさです。小屋もその白馬三山を中心にした白馬連峰を借景に、「壮麗なアルプスとさわやかな麓の小屋」といったものをイメージしていたのですが、なかなかそのような都合のいい小屋を探し当てることができず、やっとのことでこの小屋にたどり着いたわけです。我ながら、当初思い描いていた小屋と著しくかけ離れ、似ても似つかないものを撮ったなと、あらためて自分のやっていることのいい加減さを写真の小屋をながめながら自覚しているありさまです。
 
 小屋がある周辺は、八方尾根のスキー場や別荘、ペンション、カフェといった観光施設が点在するリゾート地のど真ん中で、写真右側には幹線道路が通っています。小屋の背後に見えるのは建設会社の作業場で、重苦しい機械が並び、おまけに送電線の鉄塔まで顔を出していたりと、とりとめのない雑多な風景を切り取っています。正直なところ「どこがアルプスだ? なにが白馬だ? リゾートはどこにあるのか?」と、いいたくなる意味不明な写真で、唯一、アルプスやリゾートらしいといえるのは、おそらく小屋本体ではなかろうかと思います。当時、この小屋にカメラを向けながら、「建設会社の作業場の小屋にしては、異様に美しいが、リアリティに欠けた小屋だな」と、思ったことを覚えています。

 それ以来、この写真の小屋を自分は建設会社の作業小屋としてきたのですが、いまあらためて写真を見ると、どうやらその作業小屋というのが、まちがっていたようなのです。手前の小屋と背後の作業場とは別々の敷地にあるようにもみえ、土地の区割りを見るかぎり、異なる敷地と解釈したほうが理にかなっていて、建設会社とはまったく関係ない小屋のような気がします。どうも、自分の行動のいい加減さにくわえて、ものごとを判断する力のほうも、それに負けず劣らずの二人三脚のところがあるようで、見事なまでにデタラメな私の本質を、この小屋は容赦なくあぶりだしているようにみえます。

 小屋は、窓をできるだけ小さくしてあるところをみると、用途は避暑用にすごすハウスではなく、たんなる物置小屋でしょう。色もかたちも単純、明快で、なによりも曖昧なところや不純な要素がなく、現実離れしたハリボテ建築といった表情をしています。そして建設機械や鉄塔といったまわりの生活騒音にもまったく動じた様子がありません。はやい話が周囲の空気をまるで読めていないのですが、そんなことなど気にもせず、堂々と立っていて、その揺るぎない強固な姿勢こそ、3000メートル級の山々の存在感そのものである、と思うわけです。このようなきわめて異質なタイプの小屋をほかに探すとなると、おそらくイヌ小屋かウサギ小屋、それにテーマパークといったたぐいになるか、さもなければもっと現実から遠く離れたアニメ、童話の世界へ入っていくしかありません。だからこそまた、非日常ともいえるリゾート地の空気にはたいへんよく合った小屋だといえるわけですが、なんだか、せこいこじつけのようでもあります。

小屋の旅 018 (棚田と小屋)

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18.棚田と小屋

 飯山から妙高に入ったところあたりで撮った小屋の写真です。昔ながらの棚田がまだかたちをとどめながら維持されているところで、5月の中旬ごろのものです。山は新緑の淡い緑に包まれ、そこに杉林が入り組んだ典型的な里山景観といったところでしょうか。山桜が咲いているのが見えますが、標高が高いとみえ、平地と比べて季節に少し時間差があるようです。田んぼには耕耘機が入って、これから代かき、田植えとなるのでしょう。その奥に真新しい小屋が見えます。

 この写真は4、5年前のものですが、棚田ではほとんど米づくりがされていません。写真の下のほうにかろうじて行なわれている程度で、あとは畑にしたり休耕田になったりしています。それでも耕作放棄はせず、草刈りなどを継続しながらなんとか環境を維持しているようで、時代の流れにのってゆっくりと変化している棚田です。昔ながらの姿を頑固に守っている棚田も立派ですが、この棚田のように、現実路線に舵をきっているところも、見ていて肩が凝らなくていいものです。

 実際、これほど小さい棚田で稲作を維持していくのは、現代にあっては非現実的です。その無理を承知でやっているのが、かなり高齢と思われる耕耘機の農家だろうと思います。スマホ依存やニコチン依存と同じく“田んぼ依存”という病気にかかっている、といえないこともありませんが、ただ、こちらの依存症は健康維持と生き甲斐には大いに役立っているはずです。耕耘機のいいところは、牛が田を耕すスピードに近いことで、ぬかるんだ土のなかを牛ならぬ耕耘機に引かれて、ひまな1日をゆっくり田んぼのなかを散策するわけで、健康に悪いはずはなく、これぞ“医者いらず”というやつです。

 畑に転用した棚田に建っている青いトタンの小屋は、どこかさっそうとしたところがあります。そして小屋の足もとには、野菜や果物を育てているのでしょうか、ビニールシートのトンネルが一列にのび、見ていて気持ちがいい風景です。新しい希望が棚田に芽生えている感じでしょうか。いっぽうの耕耘機の主はといえば、その耕耘機に引かれて行く先は、冥土への旅かもしれませんが、これはこれでまた、なんとも幸せな光景ではないでしょうか。三途の川を耕耘機といっしょに渡る覚悟がみられ、あっぱれというしかない道行です。カエルやその子のオタマジャクシ、ドジョウ、メダカといった田んぼの生き物たちに見送られながらの旅立ちとなるわけで、田舎の終活はこうでなくてはいけません、というひとつの見本です。

小屋の旅 017 (鎮守の森と小屋)

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17.鎮守の森と小屋
 桜の木とビニールハウスのあいだの砂利道は、村の神社に通じる参道で、ハウスの前に“00村社”と刻まれた石柱も立っています。その社は、写真右方向へ少し行ったところにあり、参道脇にはスギの木も何本か見えますが、風格のある古木、巨樹といった類いではなく、きわめて貧弱なものです。少しも春を思わせる勇ましい空気、わくわく感が伝わってきませんが、断じて殺風景でも殺伐としているわけでもなく、それこそ細々とした営みが淡々と続いているといった静謐な気配があって、それがまたいいのではないかと思えてくる小屋の風景だと思います。

 ちょっと薄暗く湿ったスギの参道に咲いているのは、山桜でしょう。やせ細って曲がった幹など、“なんと立派な”、といったものとはほどとおい桜の木ですが、咲いてる花に透明感、清楚さ、つつましさのようなものがあります。おそらく山桜の代わりにソメイヨシノなどでもそれなりに美しいとは思いますが、それはやはりここではちがうかな、といったところです。まあ、この山桜が美しく見えるのは、単純にここが山そのものだからかもしれません。

 ビニールハウスは、稲の育苗用のもので、春の1ヶ月間ほどだけ設営される仮設小屋です。ここで種もみから背丈15センチほどの苗に育てあげ、それを田んぼへ運んで田植えとなるわけですが、例年5月中旬から下旬が田植え時期なので、1ヶ月前の4月中頃に育苗箱に種もみをまき、その箱を慎重にハウス内に移します。その大切な苗箱が入ったハウスの入口を、よれよれのベニヤ板とつっかえ棒で力いっぱいにふさいでいるところをみると、ちょっと矛盾した力の入れようではありますが、今年の米づくりにかける農家の強い意欲が感じられます。そしてここまでは苗づくりも順調にきているみたいで、とりあえずはめでたし、めでたしといったところでしょうか。

 この春に新調したと思われるハウスのシートだけがやたら目立ち、そこだけがとても晴れやかな空気がただよっています。きっと「今年も頑張るぞ!」といった、意気込みでこのハウスを組み立てたのでしょうが、この農家も例にもれず高齢のかただと察します。稲作にかける情熱とはうらはらに、ふと我にかえると、「わしもあと何年続けられるのかな‥」といった、ため息もでてくる、そんなやるせなさを含んだピカピカのハウスで、それが山桜や、やや暗く湿っぽい鎮守の森とうまくシンクロしているようにみえます。そして4月下旬ごろには、参道の奥から五穀豊穣を祈願する春祭りの笛や太鼓の音が聞こえてきます。その祭りは過疎の村だけに“老人会の集い”といった調子で気負いもなく、安心して見ていられるような乾いた熱気で宴会が始まり、朗々としたおめでたさにつつまれる、というのは実は幻想であって、現実はむしろ逆の展開になることが多いのではないでしょうか。歳をとるほど、肉体同様に人間のこころや精神も劣化してくるのが一般的ですから。

小屋の旅 016 (ひとりユートピアの小屋)

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16.ひとりユートピアの小屋

 写真左下に見える小さな小屋は、急な坂道を50mほど登ったところに建っているもので、すぐ上には田んぼが広がっています。ほ場整備のされていない昔ながらの懐かしい棚田です。小屋のほうは間口が1間余り、持ち主がみずから手作りで建てたものと思われ、素人にしては上手に造ってあります。もちろん稲作で使うための施設ではなく、その横にある畑用です。

 小屋や棚田の一帯は地形的に特徴があって、大きな谷間のなかにある単独峰のような小高い山を棚田に開墾してしたところです。写真は谷をはさんで撮っていますが、菜の花越しに見える田んぼは、その山頂部を削って台地にしたもので、裾野にも棚田が階段状に広がっています。この台地での稲作は、耕作者が高齢のために撮影した年が最後となっています。毎年ここを訪れていますが、これだけ菜の花がいちめんに咲き誇っていたのは、この年だけです。翌年から棚田にスギの苗木が植えられ、ゆっくりと田んぼからもとの山へ、人の手から自然へと帰っています。

 この小屋で少し気になるのは建っている場所です。本来なら台地の上にある畑の片隅に造ったほうが、畑仕事にはなにかと都合がよかったはずです。それなのにこの場所になったのは、ひとつに軽トラが畑まで行くことができず、建築材の運搬が困難で、妥協してここになったというものです。また、大きな谷間のなかにある高台なので、谷を抜ける強風のリスクも考えられます。突風が吹くと小屋が飛ばさせる恐れから、それを避けるためにこの場所にした可能性もあります。いずれにしても少し遠慮がちに、中途半端な場所に建っていますが、これも城などと小屋とのよってたつところのちがいなのでしょう。

 台地の棚田には水が張られ、これから最後の米づくりがはじまろうとしているところです。右横の畑ではすでに野菜づくりが始まっているようで、その奥に2本の梅の木が花を咲かせています。観賞用ではなく、梅干しの原料となる実を収穫するためのものです。2本の梅の木の真ん中にぶどう棚らしきものも見えます。夏はこの棚の下で休憩をとったりするのでしょう。さらにその奥は植林した里山へと続きます。これで柿の木などでもあれば、1970年代以前の農家の庭先を彷彿とさせるものがあり、その理想のかたちをここで実現している、まさに箱庭のような光景です。小屋の持ち主は、ここに自分の小さなユートピアをつくっているのかもしれませんが、ストレス、認知症、TPP、株、為替といったものとは、まったく無縁な方なのでしょうね。咲き誇る菜の花のように。

 

小屋の旅 015 (山里の小屋)

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14.山里の小屋

 写真の小屋があるところは、能登半島の付け根に位置する氷見市でも山奥の中山間地で、季節は3月から4月ごろにかけてのごくありふれた風景です。近年の暖冬の影響か、道の両脇にはすでに雑草が顔を出しています。長い冬を経て春を迎えると真っ先に目にするのがこの植物群で、別に待ちどうしいというほどのものではありませんが、それでもどこか懐かしいというか、ホッとしたうれしい気持ちもこみあげてきて、複雑な心境にしてくれます。山里ではいよいよこの生命力にあふれた雑草との格闘シーズンを迎えますが、そんな序曲に立つ小屋です。

 集落から少し離れた棚田の入口にあるこの小屋は、トラクターなどの農機を格納しておくための施設と思われ、鬱蒼とした森を抜け、前方に広がる明るい風景が印象的です。どうもこの建物は“場所性”に特色があり、青いトタン屋根がよく目立つことや、棚田への入口という境界に立地することなどから、地域の一里塚のような役目をはたしているようです。村境や峠、三叉路に祀った石像に、厄除けや五穀豊穣を祈願する「道祖神」「地蔵」「サイノカミ」といった古い風習を想起させるものがあって、この小屋が立つ位置に道祖神が祀られていてもおかしくない、そんな場所だと思います。もちろん小屋の持ち主はそのようなことを念頭にここを選択したわけではなく、おそらく、だれが建ててもここを選んでしまうポジションにおさまっている、そのような小屋ではないでしょうか。

 外壁はクリームとブラウンの2色のトタン廃材をうまく組み合わせ、落ち着いた配色にしたうえ、屋根をブルーの波トタンでアクセントをつけるなど、けっして贅を凝らした造りではありませんが、センスのよさがうかがえます。屋根や壁が汚れてくすんでいるところなども、こうして見るとなかなかいい調子です。着こなしがじょうずなわけで、それに加えて小屋にしては土台部分がしっかり造られ、屋根と基礎まわりにコストをかけた模範的な建物になっています。おまけに手入れや建物周囲の草刈りといったメンテにもぬかりがなく、持ち主の堅実な人柄がなんとなくでています。

 「近づく春」を、気温の上昇や日差しの強さなどで察することができます。これは市街地でも山里でもみな同じですが、山里ではもうひとつ、野や山の色合いが徐々ににぎやかになってくることで、春の訪れを知ることができます。冬に色が消えて世界がリセットされ、それが春になると木々の芽吹きにはじまって花々が咲き、緑、赤、黄など、いろんな色がゆっくりと強度と量を増しながら蘇ってきます。色にもエネルギーがあり、それに促されるように小鳥やカエルなどの動物たちのざわめきも湧いてきて、それこそ過疎地であっても活気みなぎる季節がやってきます。自然が動いている、自然が生きているといった騒々しさにつつまれる山里の春ですが、この小屋はそのような営みを静かに眺めながら佇んでいるかのようです。

小屋の旅 014 (植物園の小屋)

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14.植物園の小屋

 スイセンの背後に見えるハウスは、氷見市海浜植物園にある小屋で、展示植物を育てる育苗施設として使われているものです。白砂青松の松田江浜に建設された同園は、ポストモダンの建築家・長谷川悦子氏の設計による迫力ある造形が目玉で、平成8年の竣工からかなりの年月を経た現在でもそれほど違和感はありません。ただ、問題はクセのあるこのハードをどのように使いこなすかですが、こればかりは、地方の小さな町でうまく生かしていくのはいかんともしがたいところがあるようで、それなりに考えさせられる植物園になっています。そんな園内の裏地にあるのがこのハウス小屋です。

 小屋というには少し大きすぎますが、屋根も壁も総ガラス張りの温室ハウスで、海へ向かって突き出したアクロバチックな本館とは異なり、こちらはきわめて普通の建物です。ただ、その湾曲したガラスの壁面いっぱいに夕日が映り込むと、大きく表情を変えます。ハウスは植物園のバックヤードなので一般には公開されていませんが、夕日を浴びると舞台の主役に躍り出るほどの生気がでて、それを見ていると「ハウスのなかに入ってみたい」と思わせる求心力を帯びてきます。

 おそらく建物の設計においては、その土地の情報をいかに集めるかが大きなテーマというか仕事になると思いますが、この植物園にあっては、“朝日”や“夕日”といったコンセプトがあってもおもしろい植物園になったと思います。日が昇る時間帯にここを訪れたことはありませんが、夕日を浴びるころには独特の雰囲気に包まれます。平板な日中の光とは異なり、朝や夕方の日差しにはひとの情感に訴えるなにかがあるようで、また植物園だけに施設にガラスを多用していることや、海岸に隣接し、浜辺の植物に熱帯・亜熱帯の植物を展示していることなどを考え併せると、なおのことそのように思います。

 写真のスイセンは、バックヤードと駐車場の境に植えられ、ひと目につく場所にあるにもかかわらず、「わぁ、きれい!」「美しいわね!」と、声をかけてもらう機会はほとんどありません。よく「植物にやさしい言葉をかけながら育てると、よく育つ」といった話を耳にしますが、植物園の駐車場の花にはそれは望めません。それでもスイセンはその季節になると見事な花を咲かせます。北陸でスイセンといえば古くから越前海岸の自生地が有名で、大陸から流れ着いたという説もあるようです。そうだとしたら東尋坊に代表される険しい海岸沿いを選んでよくぞ定着したものだと感心します。しかも寒風吹きすさぶ日本海の冬に花を咲かせるといいますから、「そんなに厳しい環境のなかでどのように咲いているのか」と、興味をおぼえます。一方、写真のスイセンは植物園の裏手の駐車場脇という、これまた園内ではいわば辺境の地に咲く花で、ある意味、越前海岸のスイセンと似たような立場だといえなくもない、と思ったりもします。